赤ちゃんの脳と言葉:記憶と注意が言語獲得をどう促すか
はじめに
赤ちゃんは、驚くほど速いスピードで周囲の音や言葉を吸収し、やがて話し始めます。この驚異的な言語獲得能力は、脳の様々な機能が複雑に連携することで実現されています。中でも、言葉を「覚える」ための記憶の機能と、言葉を「選び取る」ための注意の機能は、言語獲得の土台となる重要な認知機能です。
この記事では、赤ちゃんの脳における記憶と注意の機能が、どのように発達し、言葉の習得を支えているのかについて、科学的な知見に基づいて解説します。
言葉を覚えるための「記憶」の役割
言葉を覚えるということは、単語の音とその意味を結びつけたり、文法のルールを理解したり、特定の文脈で適切な言葉を選ぶ方法を学んだりすることです。これらのプロセスには、脳の記憶機能が不可欠です。
- 短期記憶とワーキングメモリ: 聞いたばかりの音や単語を一時的に保持し、処理するために使われます。赤ちゃんが言葉を聞いて、すぐに模倣しようとする時などに働いています。言葉の音韻的な情報や、短いフレーズを理解する上で重要です。
- 長期記憶: 繰り返し聞いたり、特定の文脈で経験したりした言葉を、脳に定着させる機能です。単語の意味、話し方のパターン、過去の会話内容などを蓄積し、語彙や言語知識を増やしていく上で中心的な役割を果たします。
- 陳述記憶(エピソード記憶・意味記憶): 具体的な出来事(「このおもちゃの名前はおもしろいね」と言われた)と共に言葉を記憶するエピソード記憶の萌芽や、単語の意味そのものを抽象的に記憶していく意味記憶の基礎が築かれます。
- 手続き記憶: 言葉の音の出し方、文の組み立て方など、自動的に行われるようになる言語の「使い方」に関する記憶です。
赤ちゃんの脳では、特に生後数ヶ月から数年にかけて、記憶を司る海馬や、様々な情報を統合して長期記憶として定着させる大脳皮質のネットワークが急速に発達します。繰り返し親から言葉を聞かせられたり、五感を使った体験と共に言葉に触れたりすることが、これらの脳部位を活性化させ、記憶の定着を促すと考えられています。
言葉を聞き取るための「注意」の役割
私たちの周りには、話し声だけでなく、様々な音が溢れています。赤ちゃんがこの音の洪水の中から、言葉として意味を持つ音(話し声、特定の単語)を選び出し、そこに意識を向けるためには、注意機能が必要です。
- 選択的注意: 複数の情報の中から、特定の情報(例えば、お母さんの声や特定の単語)を選び出して注意を向ける機能です。赤ちゃんは、親の語りかけの声のトーンやリズムに自然と注意を向ける傾向があります。
- 持続的注意: 特定の対象に、ある程度の時間、注意を向け続ける機能です。絵本の読み聞かせ中に絵や語りに集中したり、親とのやりとりの中で言葉に耳を傾け続けたりする際に働きます。
また、注意機能と言語獲得において非常に重要なのが共同注意(Joint Attention)です。これは、養育者と赤ちゃんが、同時に同じ対象(おもちゃ、絵本の中の絵など)に注意を向ける状態を指します。養育者が指差しながら「これはブーブーだよ」と言う時、赤ちゃんはその指差された対象と「ブーブー」という音を結びつけやすくなります。共同注意は、言葉の意味を理解し、語彙を増やしていくための強力な足がかりとなります。
注意機能の発達には、脳の前頭前野や頭頂葉などが関わっています。これらの部位は、自己制御や情報処理の中心であり、生後徐々に発達していきます。親が赤ちゃんと一緒に物を見たり、話しかけたりすることで、赤ちゃんの注意を特定の対象や言葉に導き、注意機能の発達をサポートすることにつながります。
記憶と注意の密接な関係
記憶と注意の機能は、独立して働くのではなく、互いに密接に連携しています。
- 注意を向けたものが記憶に残りやすい: 何かにしっかりと注意を向けた情報ほど、脳に強く印象づけられ、記憶として定着しやすくなります。親が赤ちゃんと一緒に遊ぶ中で、赤ちゃんが興味を持って注意を向けているものについて話しかけることは、その言葉と対象を強く結びつけ、記憶に刻む効果が期待できます。
- 過去の記憶が注意をガイドする: 一度覚えた言葉や経験は、新しい情報に注意を向ける際の助けになります。例えば、「ワンワン」という言葉を覚えた赤ちゃんは、犬らしきものを見たときに「ワンワン」という音に注意を向けやすくなります。このように、記憶は新しい学習のために、注意の焦点を定める役割も果たします。
親ができること:記憶と注意を育み、言語獲得をサポートする関わり
赤ちゃんの記憶と注意の発達を促し、言語獲得をサポートするために、親ができることはたくさんあります。
- 繰り返し話しかける、歌う: 同じ単語やフレーズを繰り返して聞かせることは、赤ちゃんの短期記憶を活性化させ、長期記憶への定着を促します。童謡や手遊び歌も、繰り返しの要素が多く、楽しく記憶力を育むのに役立ちます。
- 共同注意を促す: 赤ちゃんが興味を示したものに一緒に注意を向け、「ゾウさんだね」「リンゴ、赤いね」などと声をかけましょう。指差しや視線を活用し、言葉と具体的な対象や状況を結びつける手助けをすることが重要です。
- 五感を使った豊かな経験を提供する: 見たり、聞いたり、触ったり、味わったり、匂いをかいだりする様々な経験は、脳に強い印象を与え、記憶を定着させやすくします。これらの経験に言葉を結びつけることで、語彙の意味理解が深まります。
- 落ち着いた環境で話しかける: 周囲の騒音が少ない環境で、赤ちゃんと向かい合って話すことで、赤ちゃんは親の声や表情に注意を向けやすくなります。情報過多な状況を避け、赤ちゃんが特定の情報に集中できる機会を作ることも大切です。
- 絵本や遊びを活用する: 絵本は、絵と文字、そして読み聞かせという体験を通して、赤ちゃんの注意を引きつけ、言葉の繰り返しによる記憶の定着を促す強力なツールです。「ごっこ遊び」なども、想像力と言葉を結びつけ、記憶や注意、さらにはより高次の認知機能の発達を促します。
まとめ
赤ちゃんの驚異的な言語獲得能力は、脳の記憶機能と注意機能という重要な認知機能によって支えられています。言葉の音や意味を脳に定着させる「記憶」と、周囲の音の中から言語情報を選び取る「注意」は、互いに連携しながら赤ちゃんの言葉の世界を広げていきます。
日々の関わりの中で、赤ちゃんに繰り返し話しかけたり、一緒に物に注意を向けたりすることは、これらの脳機能の発達を促し、言語獲得を豊かにすることにつながります。赤ちゃんの「覚えたい」「分かりたい」という内発的な力と、親の温かく応答的な関わりが合わさることで、言葉を学ぶ脳は大きく成長していきます。